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オンライン展覧会 山種美術館の川合玉堂―美しき日本の風景― 全71点公開

オンライン展覧会開催にあたり
 
山種美術館では2022年7月9日(土)から9月25日(日)まで「【特別展】水のかたち ―《源平合戦図》から千住博の「滝」まで― 特集展示:日本画に描かれた源平の世界」、2022年12月10日(土)から2023年2月26日(日)まで「【特別展】日本の風景を描く―歌川広重から田渕俊夫まで―」を開催します。

 上記2つの展覧会に展覧会に川合玉堂の作品が出品されることから、オンライン展覧会 山種美術館の川合玉堂―美しき日本の風景―を開催します。
 山種美術館が所蔵する川合玉堂作品・全71点を全点公開!全71点すべてを収録した図録は、過去2013年に開催した展覧会図録「【特別展】生誕140年記念 川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―」がありますが、こちらは既に完売しており、全点ご覧いただけるのは本オンライン展覧会のみですので、ぜひこの機会にお求めください。
 一部の作品は部分拡大画像を載せており、細部までお楽しみいただけます。お好きなお時間にゆっくりとご覧ください。

開催概要
・出品作品数:71点
・販売価格:980円
・オンライン展覧会 会期:記事をご購入いただくとご登録メールアドレスに自動送付され、無期限でご覧いただけます。
・冒頭の3点を無料で公開していますが、全てをご覧いただくためには、無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。

【目次】

ごあいさつ

 日本の自然や風物を叙情豊かに描き出した川合玉堂(かわいぎょくどう・1873-1957)。当館創立者である山﨑種二(やまざきたねじ・1893-1983)は、玉堂と親しく交流し、戦時中にもしばしば奥多摩の玉堂邸を訪れるほどの間柄でした。その縁から当館の所蔵となった玉堂作品は71点を数えます。本オンライン展覧会では、画業初期から晩年までの名品の数々を通じて、玉堂の画家としての足跡をたどります。

作家略歴

川合玉堂(かわいぎょくどう)
1873-1957 (明治6-昭和32)
 
本名は芳三郎(よしさぶろう)。1873(明治6)年、愛知に生まれ、尋常高等小学校時代を岐阜で過ごす。1887年、京都の画家・望月玉泉(ぎょくせん)に入門、「玉舟(ぎょくしゅう)」の号を与えられる。早くから頭角を現し、1890年には第三回内国勧業博覧会に入選。また同年には外祖父・佐枝竹堂(ちくどう)の一字をとって号を「玉堂」にあらため、当時の京都画壇の中心的存在であった幸野楳嶺(ばいれい)の門に移っている。
 1895年、橋本雅邦(がほう)の作品に深い感銘を受けた玉堂は、翌年に上京して雅邦に師事、さらなる研鑚を積んだ。狩野派を本格的に学び、西洋絵画や琳派などの諸派も研究しながら自己の画風を模索し続ける一方、1907年創設の文展では審査員をつとめ、以後官展を中心に活躍。1915(大正4)年より東京美術学校(現・東京藝術大学)教授として後進の指導にもあたる。さらに、1917年に帝室技芸員に任ぜられるなど、画壇の中心的存在として一層の活躍を遂げ、1940(昭和15)年には文化勲章を受章した。
 晩年の玉堂は、戦時中の疎開をきっかけに住み始めた西多摩の御岳(現在の東京都青梅市)を終の住処とし、山村や田園の自然と生活を日本的な叙情を込めて描く画風は円熟の域に達した。また、『多摩の草屋』をはじめとする自作の和歌・俳句集を次々に刊行。1951年には文化功労者となる。1957年没。享年83。

第1章 
研鑽の時代から玉堂芸術の確立へ 
京都~東京時代

 愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、1887(明治20)年、14歳で京都の画家・望月玉泉(ぎょくせん)のもとで日本画を学び始めました。3年後の1890(明治23)年には画壇にデビューし、さらなる高みを目指して、円山・四条派の幸野楳嶺(ばいれい)の画塾に移ります。玉堂は同門の竹内栖鳳(せいほう)や都路華香(かこう)らと切磋琢磨する日々を過ごしました。
師の楳嶺が他界した1895(明治28)年、第4回内国勧業博覧会に《鵜飼》(No. 1)を出品し、三等銅牌を受賞した玉堂は、同博覧会に出品されていた橋本雅邦の作品に衝撃を受けたことにより、翌年、上京して雅邦に入門します。やがて玉堂は、円山・四条派の基礎の上に、狩野派の様式を取り入れるとともに、伝統的な山水画から近代的な風景画の世界へと新たな境地を見出していきます。
 大正から昭和にかけて、玉堂は官展を主な活動の場とし、東京画壇の中心的な存在として活躍しました。玉堂は、風景画の中に自然とともに生きる人々の姿を織り交ぜながら、色彩と線描の視覚的な効果を意識し、情趣あふれる独自のスタイルを確立しました。第1章では、画業初期の作品から、自身の画風を確立した昭和初期の《石楠花》(No. 5)や、玉堂芸術の真骨頂ともいえる《春風春水》(No. 17)、そして戦時下の作品までをご覧いただきます。

No. 1 《鵜飼》

川合玉堂《鵜飼》(うかい)
1895(明治28)年 第4回内国勧業博覧会展
絹本・彩色・軸(1幅) 158.0×85.3cm
山種美術館

 長良川の鵜飼は玉堂が少年時代を過ごした岐阜の代表的な風物であり、生涯を通じ繰り返し取り上げている。本作品は初期の代表作で、金華山(きんかざん)の麓の大きな岩面のそばに鵜舟が集まり、漁が行われる様子を描く。構図は江戸時代の名所絵版画や円山応挙(おうきょ)の《鵜飼図》などに準じたとみられるが、鵜を操る鵜匠たちや魚をとる鵜の姿が活き活きと表現され、実感のこもった情景描写となっている。

川合玉堂《鵜飼》(部分)

―川合玉堂のことば―「私のふるさと」
 記憶にのこるのは少年時代を過した岐阜のことで、戦後は一段と盛んになった鵜飼が何といっても代表的なものであろう。鵜飼の場所としては金華山を対岸に見る長良橋のあたりが、一番川幅も広く適処とされる。
 夜の帳(とばり)が垂れて酒楼や遊覧の船に一様に火がともれば、舟伏(ふなぶせ)の山裾やや左方、水平線の上に篝火(かがりび)を焚いた七艘(いまは六艘)の鵜船が次ぎつぎと現れて火足閑かに川下へと下って来る。
 金華山は真黒の山容を茫乎(ぼうこ)として川に迫り、これを背景として篝火はあかあかと川面を照らし、ホーホーという舟人のかけ声とともに、鵜匠のたくみな鵜さばきが面しろい。鵜舟の篝火は次第しだいに川下へと下れば、川面はぬばたまの闇にかえり、歌のねのみそこここにざわめくのである。

(『萌春』34号 1956年7月)

―川合玉堂のことば―
 此頃【※1】から芸術上の懐疑に煩悶するようになった。それ迄は(幸野)楳嶺(ばいれい)先生に近づく事を目的としていたが、自我に睲(めざ)め、古画を見るにつれ、楳嶺風の作画にあきたらず、思いは高くとも技は伴わず懊悩(おうのう)の時は続いた。…(中略)…此年(明治28年)第四回内国勧業博覧会が京都で開かれ、私は郷里岐阜の「鵜飼ひ」を出品して三等賞銅牌を受けた。此博覧会に現在岩崎家に所蔵【※2】する有名な雅邦先生の「龍虎図」と「十六羅漢」が出品された。私は此二つの作の持つ神韻(しんいん)に文字通りに非常な激動を受けた。迷路に立っていた私にとっては全く燦爛(さんらん)たる一道の光明を得た思いであり、その時受けた激動は全く筆紙には尽せないものであった。幾度か博覧会に通い色彩筆致を研究した。
 「こんな偉大な人が現代に生きているならば直接打突(ぶつ)かって自分を鍛え直さなければならない徒(いたず)らに友達同志で煩悶を繰り返す事はつまらぬ事だ、どうか雅邦先生に御目にかかりたい。京都に居ては到底救われない」と固く思い込んだのであった。
※1 1892-95(明治25-28)年頃  ※2 現在、静嘉堂文庫美術館所蔵

(『アトリエ』7巻4号 1930年4月)

No. 2 《渓山秋趣》

川合玉堂《渓山秋趣》(けいざんしゅうしゅ)
1906(明治39)年 第5回二葉会展
絹本・彩色・軸(1幅) 151.7×85.1cm
山種美術館

 橋本雅邦(がほう)門下の団体・二葉会(ふたばかい)の展覧会に出品された作品。全体に雅邦の作風が色濃く反映されるが、遠方の山並みは群馬の妙義山をモデルにしており、雅邦から学んだ雅邦の様式に日本の実景を取り入れようとしていたことがわかる。小橋を渡る人物も中国ではなく日本の人物であり、漢画的な山水表現に取り組みながらもあくまで日本の風景を描こうとする玉堂の姿勢がみてとれる。

川合玉堂《渓山秋趣》(部分)

―川合玉堂のことば―
 
雅邦先生はあまり写生をされないので、理想主義の方でしたから、まあ心持をおっしゃる方で、これはまた非常にいいお教えですから謹んで聞きましたけれども、自分の個性は、私自身、自然が好きなんですね。これはどうも仕方がない。やはりそれが系統というのでしょうか。うちの親父は絵を描きませんけれども、自然が好きで、私の子供の時分、父と山登りを時々したものです。私はどうも純然たる理想派にはなり得ないで…。自然が好きなんですね。

(「美術対談6 川合玉堂・河北倫明」『三彩』78号 1956年8月)

No. 3 《雨江帰漁図》

川合玉堂《雨江帰漁図》(うこうきぎょず)
1912(明治45/大正元)年 絹本・墨画・軸(1幅) 124.1×50.8cm
山種美術館

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