画家のアトリエは物語に満ちている、というお話。
こんにちは。山種美術館特任研究員の三戸と申します。
当館では今月から「百花繚乱―華麗なる花の世界―」がスタート。
4月24日には、関連イベントとして、日本画家の西田俊英(にしだしゅんえい)先生によるオンライン講演会を開催します。
先日、打ち合わせで西田先生のご自宅にお邪魔しました。
今回は、そのときの体験を交えながら、日本画家のアトリエにまつわるエピソードをご紹介したいと思います。
1.画室は神聖な道場である―上村松園の場合
今度の講演会は、アトリエからの生中継という、オンラインならではの趣向で実施します。打ち合わせでは、セッティングの確認で先生のアトリエにも入らせてもらいました。
芸術家の創作の場に足を踏み入れるのは特別なこと。先生は気さくに接してくださいますが、こちらの緊張はなかなかほぐれません。
あの緊張は何だったのか…後から思い返すうち、ある画家の言葉が脳裡に浮かびました。
「私にとってはかけ替えのない神聖な道場」
これは、日本画家の上村松園(うえむらしょうえん)が、自身の画室を語る際に述べた言葉です。
[上村松園《詠哥》山種美術館蔵]
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松園は1875(明治8)年に京都に生まれ、1945(昭和20)年に奈良に疎開するまで、ずっと京都に住んでいました。
1914(大正3)年、39歳を迎える年には、中京区に自宅を建てました。場所は京都御所の南に位置し、今も通りから外観を眺めることができます。
表を高い塀で囲った、いかにも京都の町家らしい外観ですね。このような造りは「大塀(だいべい)造り」と呼ばれるそうです。
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画室は母屋と廊下続きの離れになっていました。2階建てで、夏の暑い時期には1階を使い、それ以外は2階で制作したといいます。
松園にとって画室は「神聖な道場」。たとえ家族であっても、かわいい孫であっても、みだりに出入りはさせませんでした。
ところがあるとき、東京の婦人雑誌の記者が取材に来て、画室の内部を撮影したいと言い出します。最初は断ったものの、再三頼み込まれ、しかたなく許可しました。
「大変困却した感じを強くしたことは今でも忘れられません」と述懐しているくらいですから、心底不本意だったのではないでしょうか…。
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松園の家では、家事や子育て一切を松園の母が引き受けていましたが、画室の掃除だけは松園自身がやっていました。
ハタキやホウキもすべて自分専用だったそうです。
松園は「雨の降った翌日のしっとりした空気が掃除には上々のよう」だと語っています。掃除の仕方にもこだわりがあったのでしょう。
美人画の白い肌に埃は禁物。松園にとっては、画室の掃除も制作を支える営みのひとつだったのかもしれませんね。
2.静かな囲炉裏端―小林古径の場合
次は西田先生の恩師にちなむお話です。
西田先生は奥村土牛(おくむらとぎゅう)の最後の弟子にあたります。
ご自宅のなかには土牛の写真などが飾られていて、亡き師を深く敬慕されている様子がうかがえました。
その土牛にも、師と慕い続けた画家がいます。
同門の兄弟子にあたる小林古径(こばやしこけい)です。
[小林古径《白華小禽》山種美術館蔵]
古径は1883(明治16)年に新潟に生まれ、16歳の年に東京に出て、梶田半古(かじたはんこ)に入門しました。
土牛は1889(明治22)年に東京に生まれ、同じく16歳で半古の塾に入門。6年下の後輩として、古径との交流がスタートします。
[奥村土牛《初夏の花》山種美術館蔵]
当時の古径は画塾の塾頭格。半古の指導は週1回と決まっていたため、普段の指導は古径が担当しました。土牛が質問すると、古径はていねいに教えてくれたそうです。
半古が他界したあと、土牛は古径を師と仰ぎ、指導を受け続けたのでした。
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1915(大正4)年、古径は大森の新井宿に住まいを構え、1920(大正9)年には、馬込にあった農家の住宅を購入し、自らの画室とします。
土牛は留守番役を兼ねて、古径の画室に住み込むことになりました。
土牛の回想によれば、建物は農家の茅葺き屋根がそのまま残され、内部の造りだけを古径の好みに改造したそうです。土間の玄関は15坪の広さがあり、玄関を上がると10畳の応接間で、その奥が画室でした。
古径はいつも昼食にと食パン2切れを持参し、応接間のいろりで焼いて食べました。土牛は半斤の食パンを食べるのが習慣だったそうです。
古径は寡黙な人だったといわれますが、土牛も口数の少ないタイプ。1日中ふたりきりでいて、会話があるのは昼食の時くらいだったといいます。
また、玄関の傍らには古風な鳥かごが置いてあり、なかにヤマバトが1羽いて、時折静寂を破るように「ポッ、ポーッ」と鳴いたのだとか。
まるで昔話にでも出てきそうな、のどかな光景が想像されますね。
こうして土牛は約2年間、古径の画室に住み続けたのでした。
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それから20年近く経った1934(昭和9)年、古径は画室の隣に自宅を新築します。
設計は、数々の名建築で知られる建築家の吉田五十八(よしだいそや)が手がけました。
注文の際、古径は「とにかく、私が好きだという家を、つくってください」とだけ伝えたそう。さすが無口で知られる古径です。
吉田は困り果てますが、苦心さんたんの末、「だれが見ても、古径先生らしい」という家をついに完成させました。
古径はいたく気に入ったらしく、すぐには引っ越さず、半年もの間、眺めて楽しんだそうですよ。
その後、吉田は画室の改造も依頼されました。古径の没後、画室は取り壊されてしまいましたが、のちに復元され、現在は移築された自宅とともに、新潟県上越市の小林古径記念美術館で管理されています。
自由に遠出できるようになったら、ぜひ訪ねてみたいですね。
3.明るすぎる画室―川端龍子の場合
最後にもう一度、西田邸の話に戻りましょう。
西田先生のアトリエにお邪魔したとき、一番印象的だったのはその明るさです。
窓からの外光、天井の照明、そして白を基調とした内装。それらの相乗効果なのか、アトリエ全体がやさしい光に包まれたようでした。
明るいアトリエといえば、思い出すのは川端龍子(かわばたりゅうし)のエピソードです。
[川端龍子《牡丹》山種美術館蔵]
龍子は1920(大正9)年、大森の新井宿に住居と画室を新築しました。
新しい画室での第1作となったのが、翌年に発表された《火生》(大田区立龍子記念館蔵)。縦寸2メートル超の大画面に、金泥(きんでい)をたっぷりと用いて、燃え盛る炎とヤマトタケルを描いた、強烈な作品です。
龍子によると、当時は畑の中の一軒家で、窓から差し込む外光が画室いっぱいにあふれ、明るすぎるくらいだったといいます。
その明るさのもとで明暗の調子を整えたため、いざ展覧会場に持ち込んでみると、薄暗いなかでは自分の意にかなう効果が出ませんでした。
しかも、当時の日本画としては、画面が極端に大きく、描写もあまりにダイナミックだったため、識者たちからは、大衆受けを狙ったという意味で「会場芸術」と批判されます。
ところが、龍子はこの批判を逆手に取り、のちには「会場芸術」をスローガンとする自らの団体を立ち上げることになったのです。
明るすぎる画室から生まれた強烈な作品が、結果として、画家を将来の扉へと導く光になった、といえるのかもしれませんね。
[光の差し込む画室で愛犬を見つめる龍子]
※昭和に入って建てられたものですが、龍子の自宅と画室は、現在、大田区立龍子記念館の向かいにある龍子公園で保存されています。
https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/park
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日本画家たちのアトリエ物語、いかがでしたか?
今度の西田先生の講演会でも、先生のアトリエを舞台に、制作にまつわるさまざまな秘話をお話しくださることと思います。皆様もぜひご参加ください!
この記事に掲載した作品のうち、松園の《詠哥》を除く3点は、現在開催中の「百花繚乱―華麗なる花の世界―」で展示されています。
また、古径、土牛、そして西田先生の作品も一堂にそろっていますので、師弟の系譜に思いをはせながら、会場で作品をお楽しみいただければ幸いです。
文:三戸信惠(山種美術館 特任研究員)
参考文献:
『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』(求龍堂、2010年)
奥村土牛『牛のあゆみ』(中央公論新社、1988年)
吉田五十八『饒舌抄』(中央公論新社、2016年)
川端龍子『画人生涯筆一管 川端龍子自叙伝』(東出版、1972年)
※再録、改訂されている場合は、出版年の最も新しいものを挙げています。