川合玉堂はどうやって日本の風景を描いたのか
こんにちは。山種美術館特任研究員の三戸と申します。
今春、当館では開館55周年を記念して「川合玉堂―山﨑種二が愛した日本画の巨匠―」(2021年4月4日まで)を開催しています。
※このイベントは終了しました【2023年1月4日追記】
その関連イベントとして、先日、玉堂をテーマとしたオンライン講演会を実施し、私が講師をつとめさせていただきました。
この記事では、その中でお話ししたことの一部をご紹介したいと思います。
1.川合玉堂といえば…
みなさん、川合玉堂(かわいぎょくどう)というと、どんなイメージをお持ちですか?
一般によく言われるのは、「日本の山河をこよなく愛した画家」「日本の自然と人々の暮らしを詩情豊かに描いた画家」といったフレーズです。
こちらは、1943(昭和18)年、玉堂が70歳を迎える年に描かれた《山雨一過》(山種美術館蔵)という作品。
雨がやみ、ちぎれ雲がただよう山あいに、さわやかな風がサーッと通り抜けていく。そんな空気感がよく伝わってきます。
山道には、風を受けながらゆっくりと進む馬子(まご、馬を引いて荷などを運ぶ人)の姿。実にのどかで、心癒される、「古き良き日本の原風景」といった趣がありますよね。
こうしたいかにも玉堂らしいスタイルが確立されるのは1930年代、昭和初期のことです。じゃあそれ以前はどうだったのかと遡ってみると…
こちらは1906(明治39)年、33歳を迎える年に描かれた《渓山秋趣》(山種美術館蔵)という作品。
同じ山間部の風景を描いた絵でも、印象がずいぶん違います。こちらは「風景画」というより「山水画」と呼んだ方がしっくりきそうです。
山水画は自然を主題とした絵画のジャンルで、中国で生まれ、日本でも古くから描き継がれてきました。玉堂はまず古典的な様式を身に着けるところからスタートしていたんですね。
2.《渓山秋趣》のヒミツ
山水画というと、こんな感じの絵がピッタリくるのではないでしょうか。
こちらは玉堂の先生だった橋本雅邦(はしもとがほう)の《深山幽谷》(山種美術館蔵)。先ほどの《渓山秋趣》と並べてみると、よく似ていることがわかります。
雅邦は狩野派(かのうは)の流れをくむ画家です。狩野派は室町時代に始まる流派で、中国の宋・元時代の様式に基づく山水画を描き続けてきました。雅邦もその伝統を受け継いでいます。
そういった経緯を考慮すると、雅邦の影響が色濃い玉堂の《渓山秋趣》も、中国の風景を描いた山水画なのかなと思えてきます。
ところが、絵をよく見ると、川には小橋がかかり、その上を渡る人物が描かれていて、さらに目を凝らすと…
いかにも日本の山村でみかけそうな人物ではありませんか!
当時の玉堂は、中国の風景を題材にしていた山水画をベースに、中のモティーフを日本的なものに置き換えることで、日本の山水という新たなジャンルを生み出そうとしていたのです。
3.《渓山秋趣》の山を探せ!
《渓山秋趣》にはもうひとつ気になる箇所があります。それは画面上方の山並みです。特に向かって左側の山は、少し傾いたような、なんとも不思議な形に描かれています。
これはパターン化された描き方ではありえない。もしかしてどこか実際の山がモデルになっているのかも…。
そう思って、当時の写生帖を調べてみたところ、前年の1905(明治38)年、群馬の妙義山を描いたスケッチに行き当たりました。やはり実際の山がモデルだったようです。
しかも、同様の構図で描いたスケッチが4図も見つかりました。玉堂は一定の方向から見た妙義山の眺めによほどこだわっていたのでしょう。
一体、玉堂はなぜ特定の眺めにこだわったのか。さらに調査を進めると、ついにスケッチそっくりの図にたどり着きました。それは…
江戸時代後期の画家、谷文晁(たにぶんちょう)が描いた妙義山の図だったのです!
4.玉堂が試みたこととは
谷文晁の図は1812(文化9)年に刊行された『日本名山図会』という版本に収録されています。
つまり、玉堂は1世紀近く前に描かれた先人の図を参考にして、妙義山を写生したというわけです。
それにしても、玉堂はなぜそんな古い図を参考にしたのでしょうか?
今度は当時の社会背景に目を向けてみましょう。
明治20年代、日本ではナショナリズムが高揚し、自国の風土に対する関心や郷土愛が高まっていきました。
その象徴といえるのが、1894(明治27)年に刊行された志賀重昴(しがしげたか)の『日本風景論』です。
『日本風景論』は10年間で15版を重ねるベストセラーとなり、若い世代を中心に多大な影響を与えました。
明治30年代になると、その影響は登山ブームへと発展し、1905(明治38)年刊行の小島烏水『日本山水論』、1906(明治36)年刊行の高頭式『日本山嶽志』など、山関係の書籍が相次いで出版されるようになります。
面白いのは、それらの書籍の中で、『日本名山図会』の図が活用されていることです。
実は、文晁の『日本名山図会』自体、日本の名山のバイブルとして、明治以降も繰り返し刊行されていました。『日本名山図会』は、過去の遺物ではなく、登山ブームの中、現役のガイドブックとして活用されていたのです。
つまり、玉堂は妙義山を描くにあたって、当時もっともポピュラーだったイメージを踏まえようとしていた、ということになります。
現代では、映画のロケ地やアニメの聖地を訪ね、映像にあるイメージどおりの景観を見つけて写真を撮ったりしますよね。
当時、日本の山に興味を持っていた人々も、『日本名山図会』や『日本風景論』を片手に現地を訪れ、掲載されている図版と目の前の風景とを重ねていたのでしょう。玉堂もそのひとりだったわけです。
そう考えると、現代の私たちには遠い存在に思える玉堂に対して、少し親近感がわいてくるのではないでしょうか。
5.「もっと知りたい」という方は…
《渓山秋趣》から30年以上を経て、玉堂は独自の境地を確立します。
こちらは1930(昭和5)年に描かれた《石楠花》(山種美術館蔵)。岩の描き方は狩野派風ですが、全体としては「山水画」というより「風景画」という印象ではないでしょうか。
面白いのは、主人公である石楠花(しゃくなげ)の花が画面上端で断ち切られていること。まるで写真を撮ったら被写体が見切れてしまったかのようです。
こうした作風の変化には、やはり時代時代の社会背景が関係しているように思えます…。
そのあたりも、先日の講演会でお話しさせていただいたのですが、ひとつの記事にすると長くなってしまうので、また別の機会にご紹介できればと思います。
玉堂が日本の風景をどのようにとらえていったかについては、少し前に大筋をまとめたエッセイを書かせていただきました。エッセイは当館刊行の図録に収録されていますので、よかったらご覧いただければ幸いです。
図録は当館ミュージアムショップで取り扱っています(税込1,430円)。クレジット決済が可能な購入用のサイトがありますので、よろしければ当館のWebサイトをチェックしてみてください。
当館のnoteを引き続きお楽しみいただければ幸いです。
文:三戸信惠(山種美術館 特任研究員)
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【以下、2023年1月4日追記】
山種美術館ではオンライン展覧会 「山種美術館の川合玉堂―美しき日本の風景―」の公開を開始しました。
こちらのオンライン展覧会では、山種美術館が所蔵する川合玉堂作品・全71点を全点公開しています。下記のリンク先サイトからご覧いただけます。ご自宅で川合玉堂作品をお楽しみください。
また、当館では2022年12月10日(土)から2023年2月26日(日)まで「【特別展】日本の風景を描く―歌川広重から田渕俊夫まで―」を開催しています。玉堂作品は本記事でご紹介した《渓山秋趣》を含む4点を出品中です。谷文晁が描いた《辛夷詩屋図》もご覧いただけます。風景画の名手たちが描いた日本の風景画の数々をご堪能いただける展覧会です。
ぜひ会場へ足をお運びいただき、記事と合わせてお楽しみいただければ幸いです。
山種美術館